チョーヤと聞けば思い浮かぶのは、「さ〜らりとした梅酒♪」というあのフレーズ。梅酒市場においてトップシェアを誇る同社の出発点は、意外なことにぶどう農家をルーツとするワインの醸造であった。梅酒を造りはじめたきっかけは、初代社長・住太郎氏の一声だ。ヨーロッパ視察で本場のワイン造りに触れた住太郎氏は、「貿易が自由化されたら国内市場が席巻される」と脅威を覚え、日本特有の梅酒造りを開始した。その後、2代目社長・和夫氏は徹底的なCM戦略を展開。「チョーヤ梅酒」のブランドを築き上げる。2007年、会社を引き継いだ5代目社長・重弘氏は、梅酒の原点に立ち返り、チョーヤならではの至高の梅酒造り、梅酒のさらなる商品価値向上に挑んでいる。国産梅しか使わず昔ながらの製法に倣い、酸味料・香料・着色料を使用しない「本格梅酒」で、圧倒的なシェアを誇っている。
「もの言えぬ環境」に心を折られてはいけない。
グローバルな時代、チャンスはどこにでもある。
次代のヒントは、やってきたことや環境の中にも。
Q. まずは会社の成り立ちについて教えていただけますか?
金銅:もともとわが家はぶどう農家でした。創業者である祖父・住太郎は、あるときヨーロッパへ視察旅行に出掛けるのですが、そこで本場のワイン造りに出会い、技術力・品質・コスト面の優位性を目の当たりにし、「いずれワインの輸入が自由化されれば、国内のワイン市場は席巻されてしまう」と危機感を覚えたそうです。そこから梅酒への転換を図ったのがチョーヤの出発点です。
しかし、いきなりワインから梅酒へと替わったのではありません。梅酒の専業になるまで、私が知る限り10種以上を手掛けていたと思います。梅酒・高麗人参酒・シャンメリー・ココア・清涼飲料水など、売れる商品を求めて試行錯誤しました。
私が入社した当時も、まだ生産量の7割くらいはワインを製造していたと思います。ただ昔は、ワインが日本人の嗜好に合わなかったんです。唯一売れたのが甘いワイン、今の甘味果実酒というものですね。当社でもワインにお砂糖の袋を付けて売っていたらしいです。ワインと同時進行で商品開発に取り組んでいった結果、今のような梅酒専業の事業形態にたどり着いたのです。
金銅:2代目である私の父・和夫の時代になってからです。父は梅酒への思い入れが強く、ラジオCMを皮切りに新聞やテレビと、次々に広告を打ち出していきました。一応、広告の費用対効果も検証していたようですが、当時は思った通りの結果にはならなかったようですね。
唯一好感触だったのが、ワンカップタイプの「プラQ(プラムリキュール)」という商品です。CMには、野球選手の金田正一さんに出演してもらいました。ワンカップの手軽さのおかげか、結構な反応があったようです。
その後、梅酒の流れをつくった商品といえば、この「紀州」です。こちらは梅の実が入ったレギュラーサイズのボトルです。発売初年(1986年)で約90万本という、過去に例を見ない売れ行きでした。当社としては、初めて全国に行き渡った商品です。
梅酒の置き場といえば床下や納戸が定位置ですが、この製品は円柱のボトルにしたおかげで、冷蔵庫に保管されるようになりました。手軽なサイズ感も、好調な売れ行きに影響したと分析しています。「紀州」の成功をきっかけに梅酒へ転向していくのですが、この製品はある意味、当社に自信を与えてくれた製品でもあります。
結果的に父が広告展開を始めたおかげで、「チョーヤの梅酒」というブランドが全国津々浦々に根付きました。これは大きな財産だったと感じています。CMのおかげでチョーヤといえば梅酒、梅酒といえばチョーヤという概念が、皆さんの記憶に深く刻まれ、ブランディングにおいては大成功です。もっとも社内では、気前よくCMを出す、金遣いが荒い社長と言われていましたけどね。
Q. ブランディングの一方で、心掛けていたことは何でしょう?
金銅:やはり品質ですね。ブランディングに見合う品質でなければ、市場で勝ち残れません。梅酒でいえば、梅そのものの出来・不出来が製品に大きく関係します。
その点当社は、出発点が農家だったこともあり、生産者の気持ちはよく理解しています。そこで自然と形成されていったのが「産農一体」という考え方でした。
初めて梅酒を造る際、祖父・住太郎は和歌山の梅農家と直接交渉し、生産者と顔を合わせながら、梅の良しあしを吟味したと聞いています。現在、買い付けそのものは農協を通していますが、生産者とのコミュニケーションは継続しています。良い梅をつくるために、農家と一体となって情報を共有し合い、新しい梅づくりの方法を試行錯誤しています。
また梅の出来だけで、品質が保証されるわけではありません。当社では果肉と種の両方から、うま味や香りを引き出すなど、技術面においても独自性をプラスしています。
Q. 当初、別の会社に就職されていたのはなぜですか?
金銅:祖父は会社を発展させるために、息子に会社を引き継いだ後は、同族以外の者に会社を任せたいと考えていたようです。私もそのつもりで、家業とは全く関係のない企業に就職し、リタイア後は先祖代々の田畑でも耕して、のんびり暮らそうと思い描いていました。
そのため大学卒業後は、シャープで営業職に就いていたのですが、父は社長を引き継いだ途端、自分には何の相談もなく「息子を辞めさせてくれ」と、当時の上司に直談判したようです。1年ほど悩んだ末に、チョーヤへの入社を決意しました。その当時、母も具合を悪くしていたので、母を安心させたいという思いもあり、父の意向に従うことにしたのです。
Q. 入社後はどのような仕事をされていたのですか?
金銅:入社直後は仕事らしい仕事をしていませんでしたね。会社のキーマンを見渡すと、当社は生産もマーケティングも全てが同族。お互いに「意見されたくない」という雰囲気に満ちていました。
同族企業は、「信用」の面では確かに固い絆で結ばれていますが、それゆえに難しさも生じます。互いの縄張りに口出しできない雰囲気の中、入社直後の私は暇を持て余していました。
前職でも営業をしていましたが、ものを売れないセールスマンほどむなしいものはないですよ。
結局、海外を転々とし、展示会などに参加して海外販路の開拓に努めましたが、残念ながらそれほど成果を上げることはできませんでした。
Q. 状況を打破するために、何をされましたか?
金銅:商品企画に取り組みました。私の弟(現専務)が、社外研修で得た情報をもとに、「シソと梅酒を組み合わせた商品をつくれないか」と話を持ち掛けてきました。すぐに商品企画に着手し、「ペリーラ」という名前の梅酒を発売したところ、これが思った以上の好調な売れ行きになりました。
「ペリーラ」は、きれいな赤色のお酒でしたので、パッケージも凝ってワイン瓶を使用するなど、それまでにない新しい挑戦をしたのです。主に業務用として、圧倒的な人気を誇りましたね。
しかしこの成功も裏目に出ます。私たちの商売において、商品企画は会社の中核を担う仕事です。新しい商品で成果を上げると、今までがんばってきた他の人たちは、何かコントロールされるような錯覚に陥るのかもしれません。成功を収めたにもかかわらず、私はまた仕事がなくなるわけです。
その後は割り切って、再び海外を転々とし、自分なりに目標を立てて販路拡大に努めました。
Q. それらの経験は、今に生かされていますか?
金銅:たとえもの言えぬ環境下でも、決して心を折られてはいけないという教訓が得られました。さらに自分が苦労した分、誰もが自由に発言できる環境づくりを心掛けてきました。
現在、京都と鎌倉で運営する梅体験専門店「蝶矢」が、おかげさまでとても人気ですが、こちらの店を提案したのは、実は当社の製造課長です。
彼は、梅文化を訴求する仕掛けづくりをずっと考えていたようで、ある日、私のもとにやって来て「新しい形で梅文化の魅力を伝えたい」と打ち明けてくれました。このアイデアが、日本の梅文化を若い世代に知ってもらうための体験型プラットホーム「蝶矢」になりました。
新しいチャレンジが部下から出てきたことは、私にとって望外の喜びでした。当社にも自由に発想できる環境が醸成されていたわけですから。
彼の提案を受け入れる際、私から条件を一つだけ出させてもらいました。それは「自分で考えて、自分でやり遂げること」です。せっかくの優れたアイデアも、人の手が介入すると要らぬバイアスが掛かります。私もこれまでのキャリアの中で、苦い経験をしました。彼の初心を貫くためにも、雑音をなるべく排除してあげたかったのです。雑音を全てなくすことは難しいのですが、もの言える環境が社内に育ってきていることは、評価できることだと誇っています。
Q. 事業継承者として、ご自身が成し遂げたいことは何でしょう?
金銅:梅酒の世界に、イノベーションをもたらしたいと考えています。そのために至高の梅酒造りとして、「The CHOYA」という銘柄の梅酒に取り組んでいます。
梅酒はさまざまなメーカーが、さまざまな造り方をしていますが、私たちはできるだけ自然の力を利用して、梅本来のおいしさを引き出した梅酒を造りたいと考えています。梅酒の世界には、これが至高という基準がありません。家庭でも作れてしまうものですから、商品のクオリティーを位置付ける基準がないのです。そんな中でもチョーヤならではの技法を進化させ、軸のぶれない梅酒を造り、次世代に引き継いでほしいと願っています。
「The CHOYA」というブランドは、梅酒の枠を超えた梅酒といっても過言ではありません。梅の品質、製品1本あたりに込められた梅の量、さらには光・空気・温度を徹底的に管理した熟成度合いなど、梅酒の出来を左右する全てにおいて、これまでにないレベルを追求しています。
「これはもう、梅酒というより、チョーヤです」というのが、「The CHOYA」のキャッチコピーですが、「梅酒」ではなく「チョーヤ」と呼ばれるレベルへ、その概念を引き上げるのが私の野望です。
Q. 海外へも、さらに販路を拡大されるのですか?
金銅:もちろん、海外戦略も忘れてはいけません。
「The CHOYA」のブランドは世界の権威あるコンテストでリキュール部門のNo.1に輝きました。当社の商品は世界90カ国以上に輸出し、海外での売り上げは約30%までに高まっています。最も多い輸出先は中華圏です。中華圏では梅の花を観賞する文化はあっても、梅の実の文化はありません。彼らにとって梅酒はとても新鮮で、中華圏ではすでに「梅酒」が「チョーヤ」として浸透しています。中華圏をはじめ、アフリカ、インド、南米など、これから勢いが増す国々へ梅酒文化を普及させたいと考えています。ものの流れは勢いのあるところから始まります。まずはアジアに軸足を置いて、海外展開を図っていきたいと考えています。
Q. これだけ知名度も商品力もある中で、変わらず地元にこだわる理由は?
金銅:当社は、大阪といっても奈良に近い地域に、本社を構えています。従業員数なども、さほど多くありません。確かに、本社機能を東京に移してはどうかという声もありましたが、インターネットがこれほど発達した現在だと、どこが本社でもチャンスロスはないだろう、という結論に至りました。インターネットのおかげで、現在は都市圏以外の地域も見直されている時代です。本社の所在地に、そこまでこだわる必要はないかと感じています。
また会社の規模についても、梅酒の市場規模を考えれば、今くらいがちょうどよいのです。最も大切に考えているのは、梅酒の世界を「チョーヤ」にできるか、技術面でいかに優位に立てるかです。
Q. 最後に広島でビジネスを考える方たちへ、メッセージをお願いします。
金銅:私の場合は事業継承でしたが、創業するにしろ、事業を継承するにしろ、何に発想の原点を見いだすかが重要なポイントでしょう。そんなヒントは、意外と身近なところに潜んでいるものです。自分がこれまでやってきたこと、あるいは自分自身を育んでくれた地域に、答えがあるかもしれません。
現在海外では、日本のお酒がかなりのブームになっています。そのため海外に活路を求める方も多いでしょう。しかし、まずは原点を大切にして、自らの地盤でイノベーティブなことに挑戦してみてはどうでしょう。するとそこから、新たなものが開けてくるのではないでしょうか。
他の地から見ると、広島県は大変ユニークな土地柄だと思います。私も営業マンとして回ったことがありますが、単身赴任者が多く、人の出入りが多い地域です。人が動く地域には、必ずビジネスチャンスが芽生えます。昨今では広島を地盤として存在感のある企業も育っています。原点を忘れず、身近なところからでも良いのでイノベーションに挑戦し、存在感ある企業へと発展させてほしいと思います。がんばってください!